山猫が見た世界

生息地域:東京、推定年齢:40歳前後、性別:オス

書籍:砂田麻美「一瞬の雲の切れ間に」(ポプラ社)

一瞬の雲の切れ間に

一瞬の雲の切れ間に

 

ブログ読者のZ氏から「yamanekoさんのレビューを聞いてみたいです」と推奨されて、期待を胸に手に取りました。果たして推薦の辞を裏切らない傑作でしたので、気合を入れてレビューします(笑)

ある子供が被害者となった交通事故を中心として、それに関連する5人の登場人物の目線から、日常生活の中で何の前触れも無く「歪み」や「つまづき」に捕らわれてしまう人々の心の葛藤を描く物語です。それぞれの登場人物を巡るエピソードは、ある部分では繋がり、ある部分では独立しているのですが、全てに共通するのは、思いも寄らないできごとによって「平穏な日常生活」を失ってしまった者たちの焦燥感。平穏で健全な日常というものが実は極めて不確実で不安定な土台の上に成り立っており、一度バランスを崩してしまうと抜け出すことはなかなかに難しい。そんな日常生活の不安定さ、人間心理の脆弱さが様々な角度から描かれています。

と言っても決して暗いだけの話ではなく、後半に進むにつれて魚の骨のように主人公たちの喉元に刺さったわだかまりが徐々に解消されていく「救い」の物語になっています。最後の場面では、映像的な美しい情景がにわかに浮かび上がるとともに本書のタイトルが示す意味が明らかにされ、主人公たちが囚われていた暗鬱な心のしこりが一瞬で昇華されます。非常に印象深い幕引きでした。

全体的にふわふわとしてとらえどころのない不安定な文調でありながらも、要所では切れ味鋭い描写で情景をあぶり出す匙加減も、なかなかに魅力的です。歌手で言えば、圧倒的な歌唱力で完璧に歌い上げるよりも、不完全さが逆に魅力的な個性になっているタイプの方が人を惹きつけますよね。本書もそういう類の魅力を発しているように感じました。

作者の砂田麻美さんのことは今回初めて知ったのですが、私と同い年で、元々は映像制作を主戦場としていて是枝裕和監督などのもとで腕を磨いていたそうです。描かれる情景が妙に映像的なのも納得です。これほどの作品を同い年の女性が書いたのかと思うと、尊敬の混じりのため息を漏らさずにはいられません。こんな素晴らしい作品を書き上げた後には、一体どんな気持ちになるのでしょうね。

一方で、ちょっと惜しいなと思う点もありました。私たちは時として、「喜怒哀楽」という単純な概念では整理できない複雑な感情に支配されます。本書の主人公たちも皆、形容し難い「名前の無い感情」に遭遇して大いに混乱し、自分を見失いそうになります。そんなとき、本書は敢えて詳細な心理描写をすることをせずに、映像的な情景描写の中にさらりと溶け込ませてしまうのですね。映像的であるということと二律背反になるのかもしれませんが、ここはやはり、追い詰められた人の心の動きについて、あらゆる言葉を駆使して存分に叙述してほしいなと思いました。

文芸作品というものは、やはり、人の心の動きがどんなものなのか?というところが勝負どころなのではないでしょうか。ここで攻め入らないというのは、ゴール前までボールを持ち込んだのにシュートしないで終わるような寂しさを感じてしまいます。著者ほどの実力があれば、もっと果敢にペナルティエリアをえぐって、突き刺さるような強烈なゴールを決められるはず。更なる高みへの期待を込めて、著者の今後の作品に着目してみたいと思います。