山猫が見た世界

生息地域:東京、推定年齢:40歳前後、性別:オス

アニメ:「新世紀エヴァンゲリオン」

エヴァがリアルタイムで放送されていたのは、1996年から1997年。当時のエヴァ旋風は、今で言うと「鬼滅の刃」と同じかそれ以上の勢いがあるものだったと思いますが、高校2年生の私にはちょっと子供っぽく見えて、何となく敬遠したまま観る機会を失ってしまっていました。それから23年、遅れていたエヴァブームがとうとう私にも到来しました(笑)。目下、四半世紀近い期間の空白を埋めて、新型コロナウイルスの影響で延期になってしまった劇場版最新作の公開を待っているところです。

と言っても、エヴァの世界観に慣れるまでには少し時間がかかりました。2007年から順次公開されている劇場版4部作(3つが公開済み)の最初の「序」を観てみたものの、全く理解できません。君たちは誰?目的は?何に抵抗し、何と戦っているの?こんなに理解できない映像作品は初めてです。そこで初めて、作品の世界観が聖書や心理学的の要素をモチーフにしていることや、作中で語られているのが氷山の一角の部分に過ぎないこと、さらに、その背景にある複雑かつ膨大な設定を理解した上で作品を見ることこそが醍醐味なのだということを知りました。

親切なファンが公開してくれている解説を頭に入れた上で、改めて新劇場版の続編「破」に挑みました。なるほど面白い、けれどもまだ難解でわからない。悔しいので、時系列をさかのぼって最初のアニメ版第1話から観てみました。あれ、劇場版と設定が違う?でも、何となくこちらの方がわかりやすい。と思ったのも束の間、全く想像もしなかったような後半の怒涛の展開に頭が混乱。気を取り直して新劇場版「Q」に挑戦。これまでの展開をぶち壊すかのような設定に驚愕し、いっそう脳味噌が揺さぶられるような感覚に襲われ・・・。

こうやってエヴァの世界にどんどんハマっていくのですね。作品自体は、徹頭徹尾、非社会的な登場人物たちによる非社会的な物語で構成されており、そのために常識的な観点で捕えようとしても理解が及びません。しかし、そのような作品の個性が故に、かえって視聴者の心に大きなくさびを打ち込むこととなり、一大ムーブメントとなって大きな社会性を獲得しています。作品の「内」と「外」で、非常に興味深いねじれ現象が生じているわけです。ねじれの要素はほかにもたくさんあります。

例えば、機械の造形。角や直線が極端に少なく曲線から構成されるエヴァンゲリオンエヴァンゲリオンというのは作中に登場する人造人間型兵器の名称でもあります)は、一般的なメカデザインとはあまりにもかけ離れています。配色は、シルバーや黒といった機械色ではなく、紫や赤、水色といった「なぜその色!?」と言いたくなるもの。動作も、関節が自由自在に伸びて軟体動物のような奇妙な動き。当然、最初に観たときはその全てに激しい違和感を感じて、ダサいとすら思いました。しかし、観ているうちにこれらの要素がすべて格好よく思えてきて、この造形、配色、動きこそが最先端のメカニックなのだと妙に納得してしまいます。

もちろん、内容面もねじれまくっています。曖昧な設定のままに物語が始まり、登場人物の個性や関係性、背景事情が少しずつ固まってきて、完成形に向けての期待が最高潮になったところで、これまで積み上げられてきたものが一気に崩壊に向かいます。視聴者は後ろ向きのジェットコースターのような展開に遭遇するわけですが、決して裏切られたような気分になるのではなく、不思議と、内面的な思索の手がかりや新しい考え方の着想など何か貴重なヒントを得たような感覚になるのですね。

ここまで尖った作品が平日夜の子供向けアニメーション枠でテレビ放送されていたというのですから、日本という国の懐の深さを感じずにはいられません。しかも、前年の1995年には1月に阪神淡路大震災が、3月には地下鉄サリン事件が発生し、誰もが、社会秩序がぐらぐらと揺らぐ様子を目の当たりにして言いようのない不安に襲われていたころのことです。日本人はこうやって社会不安をうまくエンターテイメントに昇華させて乗り越えてきたのかもしれません。そう考えると、公開予定の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」も、新型コロナウイルスの社会不安を追い風にした作品としてますます期待できそうです。