山猫が見た世界

生息地域:東京、推定年齢:40歳前後、性別:オス

映画:「マトリックス レザレクションズ」(The Matrix Resurrections)

マトリックスThe Matrix)の第一作が公開されたのは1999年ですから、もう20年以上も前のことになります。当時、大学の友人と一緒に映画館で観て、何となくぼんやりと空想していたことを、恐るべき精度で具現化されて目の前に突き付けられたように感じました。本当に頭をガーンと叩かれたような衝撃と興奮を覚えたことが、記憶に色濃く残っています。まだインターネットの黎明期で今のように便利なSNSもなかったので、限られた情報源から細かい設定や裏情報を拾い、周囲にいる人と意見交換して、それを自分の頭の中で反芻してもう一度映画館に行って・・・ということを何度も繰り返したものでした。

そのマトリックスの新作が公開されると聞いて、見たいけど見たくない(大傑作だった前作を超えられるはずがなく、劣化版を目にしてがっかりするのが怖い)という気持ちと、見たくないけど見たい(なんだかんだ言ってもやっぱり見てみたい)という気持ちの狭間で揺れ動いていましたが、とうとう意を決して映画館に行ってきました。さて、どんな作品なのでしょう。

事前情報では第1作の続編だと聞いていたのですが、ふたを開けてみると、第2作、第3作を含めた前シリーズの事後談であり、かつ、第1作のリブートという位置付けの作品でした。前半では、なんと、冒頭からマトリックスシリーズの設定そのものを遊び道具にした冗談のような話が展開されます。期待を踏みにじられたファンの嘆きと心配をよそに、冗談話がどんどん発展していって深刻化し、やがて本来のマトリックスの世界観に合流するという何とも面白い構成です。クエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino)監督の作品のような、「一筋縄ではいかないぞ」という視聴者に対する挑発的、挑戦的な雰囲気すら漂っていました。

ここからはネタバレになります!後半は、ネオ(Neo)によるトリニティ(Trinity)救出作戦となり、所謂ハリウッドアクション映画的なわかりやすい展開となります。前作(旧第1作)ではトリニティがネオを救出していましたが、本作ではネオがトリニティを救出するという裏腹の展開となります。また、前作では「救世主として世界を救う」という壮大な使命が動機となっていたのに対して、本作ではただ単に「愛する者を救う」という個人的な思いの追及が前面に押し出されます。このようにことごとく逆の方向性を志向するのも、制作陣の挑戦ではないかと思います。

確かに、前作から据え置きの配役については外見、動作ともに加齢による衰えを感じずにはいられず、変更された配役については明らかなミスマッチがあるように感じます。また、見せ場であるアクションシーンも、前作よりも進歩した技術をふんだんに用いているはずなのに、迫力もスタイリッシュさも前作に及ばないように思いました。しかし、これらは映画史に残る金字塔のような前作が落とした影であり、本作の企画が立ち上がったことで必然的に発生する負の要素ですから、制作陣も一種の覚悟を持って本作を構成する不可欠の要素として取り込んだのではないかとも思えるところです。前半の天邪鬼的な展開から察するに、制作陣には「名作すぎる前作を超えられないジレンマ」そのものを作品として見せる意図もあったのではないでしょうか。このあたりは、他の方のレビュー(マトリックスについてのレビュー件数の多いこと!)も参考にしながら、これからじっくりと考察を深めていきたいと思います。

【追記】

改めて、マトリックスの第1作(The Matrix)を観てみました。やっぱり今観ても抜群に面白いですね。公開時に映画館で観たときは衝撃のあまりにその魅力を言語化できませんでしたが、改めて分析してみると、

・革新的なストーリー:日本のSFアニメ的な世界観とおとぎ話(鏡の国のアリス)の融合、インターネット黎明期でありながら物語の基軸としてVRやシンギュラリティを提示

・映画としての根本的な魅力:歯切れの良い展開、近未来的な音楽、当時の最先端の技術を使った斬新な映像とカット割り

ポップカルチャー的な要素:哲学的で意味深なセリフ、サングラスに黒ずくめのスタイリッシュな服装、スーツやコートでの肉弾戦、単なる力比べではないクールなアクション

と言ったどれ一つとっても突出した要素が、奇跡的なほどの高密度で結晶化した作品でした。同じ世界観、同じ路線でこれを超える作品はもう作ることはできないでしょう。