山猫が見た世界

生息地域:東京、推定年齢:40歳前後、性別:オス

映画:「フェイブルマンズ(The Fabelmans)」

スティーヴン・スピルバーグSteven Spielberg)監督による、自身の自伝的な映画。幼少期から大学を中退して映画の道を志すあたりまでの自身の半生をモチーフにしつつ、映画監督を志す主人公とその一家の葛藤を描いた、フィクションとノンフィクションの中間的な作品です。1970年代から1990年代にかけての「ジョーズJaws)」「E.T.」「インディ・ジョーンズ(Indiana Jones)」「ジュラシック・パーク(Jurassic Park)」といった娯楽大作の数々のルーツが明かされる破天荒な物語を想像して映画館に赴いたのですが、良い意味で予想を完全に裏切る、しっとりとしたドキュメンタリー調の大変に見応えのある作品でした。

天才的なPCエンジニアの父と売れないピアニストの母との間に生まれた主人公のサミー(Sammy)は、両親と観に行った映画に衝撃を受け、幼少期から映像制作に没頭します。父は真面目で善良な性格ですが、サミーの映像制作は単なる趣味でしかないと考えており、サミーが大学に進学して安定した職業に就くことを望んでいます。一方、根っからの芸術肌の母は、サミーの映像制作を心から応援するものの、自由奔放な言動で周囲を困惑させたりプライベートで不倫に走ったりして何かと周囲をざわつかせます。ここにサミーが転校先で受けたユダヤ人差別なども加わって、一家は完全にぎくしゃくし、サミーの映画制作に対する情熱も失われてしまいます。

一家の物語が淡々と描かれているだけなのに、時間を忘れるほどに作品の世界に引きずり込まれてしまうのは、登場人物たちの感情表現が非常に繊細で巧妙だからではないかと思います。特に、母親のミッツィ(Mitzi)。見た目からして個性的で、更に言動は完全に視聴者の理解を超えたぶっ飛びようで、なぜこの場面でこのような言動に出るのか、どのような感情をもってその表情をしているのか、全然読み取ることができません。家族でキャンプに行った夜、ミッツィが車のライトを背にバレリーナのように踊りまくるシーンを観て、私は、このシーンが何を意味するのかが全く理解できず激しく混乱しました。主人公を始めとする他の家族も多かれ少なかれ同様で、ものすごく人物像に迫る描写がなされているのにもかかわらず、一向に人物像の核心が全く掴めないのです。

ところが不思議なことに、霧の中をさまよっているような感覚を持ちながら鑑賞を続けるうちに、登場人物たちの「読めない感情」に接することに慣れてきて、彼らと一緒に自分の心もふらふらとさまようのに身を任せるのが楽しくなってきました。そこで表現されているのは、喜怒哀楽のどれとも付かない名前のない感情、人が様々な局面で抱く混沌とした心の作用。観ている私たちの側も、それを頭で分析するのではなく、観たもの聞いたものを自然体でそのまま受け止めるようにすると、繊細で機敏な心の動きが交錯して紡がれる物語の世界観にどっぷりと浸ることができます。

サミーは最終的には幼少時からの憧れだった映画制作の道に邁進することになりますが、その過程を通じて、芸術は理性と二律背反なのだとか、映画は単に楽しいだけではなく人の心の闇の部分をも際立たせてしまうものなのだという示唆が、全く押しつけがましくない形で何度も提示されます。スピルバーグ監督はキャリアの終盤でこのような自伝的作品を作り、そこで「芸術とは何か」「映画とはどういうものか」という命題に向き合って自分なりの回答を提示しているのでしょう。

最後、スピルバーグ監督ならではのユーモラスなシーンがあり、サミーの苦難の日々が終わりようやく前途が開けてきて、さてこれからどうなっていくのだろう・・・と視聴者の期待を最大限に引き付けたところで、「単純な成功物語はこの映画の範疇ではありませんよ」と言わんばかりに急にエンディングとなります。私は、映画の世界に身を委ねて漂っていたところで、唐突に物語が終わって海に突き落とされたような感覚になり、本作を観始めたときに抱いたような激しい混乱に再び陥りました。静かな音楽とともに流れるエンドロールを眺めているうちに、ようやく気持ちを落ち着けることができました。数時間だけ異世界に引きずり込まれた後に現実世界に戻ってきたような、不思議な気分でした。ふー、すごい映画を観てしまいました。